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陽炎

陽炎(かげろう)とは、局所的に密度の異なる大気が混ざり合うことで光が屈折し、起こる現象。 よく晴れて日射が強く、かつ風があまり強くない日に、道路のアスファルト上、自動車の屋根部分の上などに立ち昇る、 もやもやとしたゆらめきのこと。蜃気楼の意味でこの言葉を使うこともある。 厳密には、陽炎は上昇気流により密度の異なる大気がばらばらに混合して起こる小規模なもので、 蜃気楼は層状に密度の異なる大気が分布した状態で起こる大規模なものである。 光は通常直進するが、空気の密度が異なる場所では密度のより高い方へ進む性質(屈折)がある。 光の発信源(人間が目で見たりカメラで撮影したりする景色や物体)と観測者(人間やカメラなど)の間に密度が異なる 空気が隣り合っている場所があると、そこを通る光は通常と異なる経路を辿り、景色や物体が通常とは異なる見え方をする。 光学では、このメカニズムによってもやのような揺らぎができることをシュリーレン現象と呼んでいる。 大気は温度変化により体積が変化して密度が変わり、温度の異なる大気が隣り合っている場合、光は冷たい空気の方へ屈折する。 晴天の日中に、物体の表面が日光を受け温度が上がったとき、風が弱い場合はそこに滞留している大気が暖まり、 密度が小さくなって浮力により上昇する。 このとき暖まった大気と周りの相対的に冷たい大気とが混ざり合い、乱流的な上昇気流が発生する。 この上昇気流の部分を通る光が様々な向きに屈折されることで、陽炎が見える。 このような現象は平原や砂浜など様々な場所で見ることができる。 焚き火の炎の上、エンジンなどの排熱には明瞭なゆらぎが見られる。 また、空気中だけでなく水などの液体中でも見られる。 大気が光を屈折させて起こる現象は他にもある。 蜃気楼の場合は、密度の異なる大気が層流的な流れをしているか静止していてほとんど混ざり合わないため、 鏡写しのように一部分だけがきれいに分離して見える。(wikipedia) 陽炎(かげろう・Heat Haze)とは、熱せられた地面などから、ゆらゆらと揺らめきが立ち上る現象です。日射や炎などにより地面が熱せられると、不規則に上昇気流が生じて異なる空気が入り混じり、通過する光が屈折して起こる現象です。アスファルトや線路上、飛行機や車の排熱、野焼きなどで良く見られます。春から夏にかけて風の弱い日に見られ、春の季語にもなっています。身近な気象現象のため、話題に上ることが少ない現象です。 蜃気楼(しんきろう、仏・英:mirage、伊:Fata Morgana[1][2]、独:Luftspiegelung)は、密度の異なる大気の中で光が屈折し、地上や水上の物体が浮き上がって見えたり、逆さまに見えたりする現象。光は通常直進するが、密度の異なる空気があるとより密度の高い冷たい空気の方へ進む性質がある。蜃(大ハマグリ)が気を吐いて楼閣を描くと考えられたところから蜃気楼と呼ばれるようになった[3]。 種類 大気の密度は大気の温度によって疎密を生じるが、低空から上空へ温度が上がる場合、下がる場合、そして水平方向で温度が変わる場合の3パターンがある。それぞれによって蜃気楼の見え方が異なる為、以下のように分類される。 上位蜃気楼 ファタ・モルガーナ ファタ・モルガーナ 四角い太陽 四角い太陽 温度の低い海面等によって下方の空気が冷やされ密度が高くなると、元となる物体の上方に蜃気楼が出現する。水平線(地平線)の下に隠れて見えない風景や船などが見える場合があり、通常ニュースなどで取り上げられる蜃気楼は、この上位蜃気楼を意味する場合が多い。 ヨーロッパなどでは、伝統的にファタ・モルガーナとも呼ばれている。 北海道別海町の野付半島付近や紋別市などでは、この対応の蜃気楼の一種として、四角い太陽が観測されることがある。四角い太陽は、気温が氷点下20度以下になった早朝、日の出直後の時間帯に、通常は丸く見える太陽が四角く見える現象である。極地域では他にもこれが観測される場所がある。16世紀末、ウィレム・バレンツらの北極海探検時にノヴァヤゼムリャで発見されたので、ノヴァヤゼムリャ現象という別名もある。 下位蜃気楼 光の屈折による下位蜃気楼 光の屈折による下位蜃気楼 逃げ水現象 逃げ水現象 最も一般的に目にする機会の多い蜃気楼。アスファルトや砂地などの熱い地面や海面に接した空気が熱せられ、下方の空気の密度が低くなった場合に、物体の下方に蜃気楼が出現する。 ビルや島などが浮いて見える浮島現象や逃げ水現象もこのタイプに属する。 鏡映(側方)蜃気楼 物体の側方に蜃気楼が出現する。報告が最も少なく、極めてまれな現象であると言える。スイスのジュネーブ湖で目撃されたという報告がある。また、日本で不知火(夜の海に多くの光がゆらめいて見える現象。九州の八代海、有明海などで見られる)と呼ばれるものも、このタイプの蜃気楼に属すると言われている。 歴史 蜃気楼(鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』) 蜃気楼(鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』) 蜃気楼と見られる記述が初めて登場したのは、紀元前100年頃のインドの「大智度論」第六まで遡る。この書物の中に蜃気楼を示す「乾闥婆城」という記述がある。また、中国では『史記』天官書の中に、蜃気楼の語源ともなる「蜃(あるいは蛟。大蛤)の気(吐き出す息)によって楼(高い建物)が形づくられる」という記述がある。日本語の「貝やぐら」は、蜃楼の蜃を「かい」、楼を「やぐら」と訓読みにしたことばである。 日本では近世に成立した『北越軍談』において上杉謙信が蜃気楼を見たとする逸話を記しているが、最も古い確実な文献として、加賀藩に仕えた澤田宗堅の『寛文紀行(寛文東行記)』〔1669年(寛文9年)〕に、蜃気楼についての漢詩が詠まれている。 『魚津古今記』〔1788年(天明8年)〕では、加賀藩当主である前田綱紀が魚津で蜃気楼を見て吉兆であると「喜見城」(「きけんじょう」=須弥山の頂上の?利天にある帝釈天の居城)と名づけたと伝えられている。その他、同じく加賀藩当主、前田治脩は、1797年(寛政9年)4月に江戸から金沢への参勤交代帰城道中に魚津で蜃気楼を発見し、その絵(『喜見城之図』)を描かせたと伝えられている[4][5][6]。 幕末の1846年(弘化3年)に北海道を探検した松浦武四郎は、著書『再航蝦夷日誌』、『西蝦夷日誌』で小樽の蜃気楼を「高島おばけ」と称して紹介している[7][8]。